前回は「希望が生まれる場所」についてお話しました。
若いひとも高齢者も、希望を持てないというのが、ひとつの社会問題だろうと思ったので、希望についてお届けしました。希望とは、変わってゆくことを恐れないことだと結論づけました。

今回は、その「変わってゆくこと」について見ていこうと思います。
むやみに変化してもあまり意味がないので、希望が持てる変わり方について考えてみたわけです。

たとえばこういう動画が参考になりました。

牛って賢いよね! ということを紹介している動画ですが、なぜ賢いのか?
本当のところは、牛に訊くしかないのですが、牛は答えてくれないので、答えは人間が考えるしかありません。

目のこと

牛は「ちゃんと見ているから」賢い。たとえばこういう仮説が生まれます。いまの時代は「キュレーター」という言葉がふつうに使われますが、もともとは美術館や博物館の学芸員をさす言葉でした。学芸員に求められるスキルとは、国宝を展示するスキルだけではなく、ものを見る「目」をひろく一般のひとに伝えるということなんだそうです。

目。

べつの言葉で言うならば「見立て」でしょうか。つまり、ものをどう見るのか? ということ。
牛も、ぼんやりと「なにも見ていなければ」、角を使って水道の蛇口を開けない。でも、ひとがやっているのを「見ている」から、できる。
今の世の中、なんでも「情報」を「ググれば」どうにかなります。企業で商品を開発するのだって、お客様の声を何万通も集めると、どうにかそれなりの新商品ができます。

もっと現場の声を聞けば?

そういうデータ的なものの考え方に批判的なひともいます。
そういうひとは、「もっと現場の声を聞けば?」と言います。つまり「わたしが/おれが汗を流している現場の声こそが本物である」と思っている節がある。
そういう意見が正しいのかどうなのかはべつにして、そういうひとは現場を「見ている」わけです。マーケティングデータばかり追い求めて、机上の空論をしているひとに「もっとデータじゃなく人間を見てよ」と言っている。

目を養う

「見る目を養う」というのは、いまの時代、もうほとんど死語みたいになっているので、こういう概念がわからないひとは、おそらくまったくわからないのだろうと思います。
それをわかるように説明しようにも、目は個人の持ち物であり、それを一般化することはできないし、養うというのは肉体を通して知ることなので説明のしようがない。
サッカー選手に「華麗なリフティングのしかた」を訊いても、一定の理屈は教えてくれることはあっても、あとはじぶんでやってみるしかないというようなことです。
でもまあ「見ること」から知恵は生まれ、知恵があれば、ひとは死ぬまでに何回でも生まれ変わることができる

つまり生涯にわたって希望を持つことができる。

情報が溢れる時代になった昨今、私たちは「見る目」を牛に学ばないと、世の中はどんどん「データの世界」に成り下がってしまうのではないかと思うのです。

Photo by flikr , ぱくたそ

トップ画像出典https://www.flickr.com/photos/flikr/230379411/
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ひとみしょう
作詞家・コピーライター・広告プランナーを経て、専業文筆家に。小学館 『Menjoy!』 での連載を経て、『ANGIE』初代編集長に就任(14年7月まで)。コラムの受賞歴多数。現在、連載9本を抱える。